碓氷峠アプト時代

 

信越本線横川ー軽井沢間の難所碓氷峠、ここには日本国鉄最大の66,7‰の勾配がひかえ、常に特殊な
運転形態がとられていました。今は新幹線の開通によりこの区間は廃止されましたが、それまではEF63を
使って国鉄最大の勾配を上り下りしていたのは、 記憶に新しいところです。
またそれ以前は、アプト式での山越えでした。このアプト式のラックレールを使用したことにこそ、この区間が
いかに厳しかったかがわかるような気がします。
今回の島田写真館はそんなアプトの時代の末期、粘着運転工事が進展中のED42の姿を展示してみました。
レンガつくりのめがね橋や丸山変電所、旧18号ぞいに見られたレンガつくりのトンネルなどのアプトの遺産は、
アプト時代を知らない私にも往時の姿を感じさせてくれました。今回はそんな走行シーンこそありませんが、
今は無き碓氷の鉄道!! アプト時代の香を感じていただければ幸いです。

BB

横川ー丸山(信)    上り急行 妙高

 

 そもそも信越本線は、海沿いの東海道とならんでの幹線として計画されました。特に当時 は艦砲射撃による
被害の考えられる東海道とは別に、内陸の東西縦貫が必要との軍事的判断が強かったようです。しかし
この旧中山道沿いのルートは地形が厳し く、特に横川ー軽井沢間に控える碓氷峠をいかに越えるかは、
大きな難問でした。ここで選ばれたのがスイスの登山鉄道などで使われていたアプト式、所謂ラッ クレールを
介して勾配を登るというものでした。明治24年3月着工、そして難所にもかかわらず国を挙げての工事の末、
翌明治25年12月には完成に至ると 言うスピード工事で信越本線の全通を見るのです。開業の頃は勿論
蒸気牽引、アプト式蒸気により横川ー軽井沢間1時間17分での運行でした。
しかしご承知のようにトンネルが多い上急勾配の連続ということで、蒸気による運行は非常に厳しく、早くから
電化が論じられ、明治45年には国鉄初の電化 路線として電気機関車牽引による運行が開始されました。
EC40やED42により所用時間も約50分に短縮され、近代化に果たした役割は大きかったようです。
 しかし戦後の高度成長期を迎えると、この区間50分運転、そして定数360tというのは他と比べても
あまりにネックとなっており、次代の策として複線化 と粘着運転が行われることとなり、昭和38年、アプトの
長い歴史は幕を閉じたのです。その後はご承知のことと思いますが、平成9年9月30日に新幹線開業 により、
碓氷峠の鉄道そのものの歴史が終焉となりました。

 


横川ー丸山(信)にて   軽井沢に登る下り列車 横川がわにED42が三両つきました。

熊の平駅に進入する下り貨物  軽井沢側はED42が
一両でした 。なお、この写真はアプト最終日のものです。

左は突っ込みトンネル、右の本線のレールの間にはラックレールが見えます。

これも熊の平にて、峠を降りる上り貨物列車、当時は貨物もかなりの本数でした。

横川近辺にて

横川機関区にて

横川?にて 下り急行白山機関車次位の一等車は、当時の皇太子が
軽井沢に行く際に、増結されたそうです。ただし回送もありました。

軽井沢にて 急行白山ED42の四重連  この頃はED42は基本的に上りも下りも横川より三両、
軽井沢より一両の運用でした。しかし中には横川側四 両もあったそうです。ちなみに昭和30年
以前は、上りも下りも横川側に四両ついて、車掌が誘導するという形が一般的だったようです。

軽井沢にて  当時の花形列車が揃っています。

矢ケ崎(信)を出て軽井沢付近に進入する急行丸池

 

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以下の記事は島田氏のお兄様の島田和美さまから頂戴した、碓氷峠のED42に関する記事と資料文献に
関する記述です。アプトの鉄道は遠い過去のものとなってしまいましたが、興味ある方はぜひ参考にして下さい。

県立図書館(埼玉/伊奈町住人ですから、浦和と久喜)の蔵書を中心とし、一部、手持ち文献にも 眼を通したところ、
ED42の3重連・4重連に焦点を絞ってみて、面白い文献にも出会いましたので、主な所をご紹介します。ちなみに、
県立図書館には親切 な事務員(男女とも)が多かったので、助かリました。蔵書検索のアドバイスや、書庫からの取り出し、
貸出しやコピーの対応など。

『さよなら碓氷線』(あかぎ出版、1997.8)
資料編の中、「横川・軽井沢間列車編成の変遷」昭和6年から昭和38年に記述が一気に飛んでいる。38年、
ED42/横川側3輛ー軽井沢側1輛の図表示あり。記事から、「本務機、第1補機、第2補機・・・到着した列車の
後部に3台の機関車を連結。一方、牽引して来たD51が開放されると、列車の前頭を担う第3補機は・・・」
「S36年、時刻大改正。白鳥がアプト区間を通る初めの特急列車となった。普通列車と異なり、後部に
4輛のED42が連結された。」

『碓氷峠物語 -- 急勾配ともたたかい --』(八木富男、碓氷峠物語刊行委員会、S54.6)
電気機関車によるわが国最初の電化のこと、発電所・変電所の建設、・・・etc.
ED42運転に関する記事は少ない。S31年の「碓氷白書」、抜本的改善のことの上申は詳説あり。新線建設に向う。

『碓氷アブト鉄道』(中村勝実、S63.9)総合的解説で、いい記事が多い。

一方、次の二つの記事は、「S9.3.29 ED42配置」の後、「S17.3.15 横川・軽井沢間に全列車機関車4輛運転開始」の
当初は横川側4重連であって、昭和30年頃(少し前?)に横川側3輛・軽井沢側1輛となった歴史を窺わせる、興味の
ある記事。ただし、公式の運転記録/運転取扱規則的なものは見当たらなかった。

A、『アブト式鉄道資料 -- アブトの記録を残すために --』(平田一夫、H3.2)
カラー写真あり、各種新聞・雑誌などの記事紹介、高鉄局文書など、参考になることが多かった文献。この中の1文。
交通新聞、連載小説 "鉄道一代" 檀上完爾 S55.6 の一部。「信越線に乗車・・・。下り列車で横川駅に到着すると、
列車の後部に4輛のアブト式電気機関車を連結し、この急勾配に挑む。・・・車掌は列車の前 頭部に立つと、前方を
注視しながら機関士に誘導の合図を送る。」(教習所を出たての若い車掌の新鮮な回想文)

B、『鉄道ピクトリアル』S30.10 "アプト運転のことなど" (新出茂雄:高鉄運転部車務課長)
「アプト式電気機関車はすべてこう配のフモト側に連結することになっている。すなわち、列車の後部から押上げるように
なっている。・・・現在は機関車3台をこう配のフモト側に、1台を頂上に連結、・・・」との記事があった。

『鉄道ファン』は充分に眼を通していませんが、参考文献として数十ヶ所が碓氷峠関連として紹介されています。
表題から見ると、次の部分に眼を通す必要がありそうです。
第4巻/33頁、25/12、29/67、44/61、72/73、135/66。

他に、面白い文献は、次のようなもの。
『大宮工場百年史』(東日本旅客鉄道株式会社、大宮工場百年史編集委員会)
『峠を越えて -- 軽井沢駅100年の歩み --』(軽井沢駅100年のあゆみ編纂委員会、1988.10) 駅舎や列車、
旧軽の町並みなどの写真も豊富で、楽しく読める。また、『草軽鉄道』(S62) 大正初期から昭和37年まで、
古い写真が沢山あり、面白い。

一方、公式資料として、『鉄道車両等生産動態統計年報(年度別)』『昭和期鉄道資料、鉄道統計年報』などもざっと見たが、
求めるものには行き当たらず。前 者の中には、例えば、S30、電気機関車生産、国鉄44輛 2,561,319千円、
民需15輛 70,000千円。S45、ジーゼル機関車、マレーシア受注10輛/生産6輛 50,402千円など、詳しい記録があり、
見ていると面白い。興味ある方はどうぞ浦和図書館(また、国立国会図書館など)へ。
国会図書館とオンライン接続(検索サービス)している公立図書館は各都道府県にあり、埼玉では、県立の浦和・久喜・川越です。